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2004-08-23

長いお話の途中ですが、ダービーレグノ……。

regno0627.jpg
上の写真は、今年の宝塚記念出走時の写真です(クリックすると大きなサイズのものが表示されます)。
ダービーレグノもサンヴァレー同様、母親が好きだったというパターンで好きになった馬でした。
加えて大好きな高橋成忠厩舎の馬ということで、かなり気合いを入れて応援していました。
今、彼がデビューしてから現在までのことをいろいろと思い出していました。この思い出についても書き出せば長いお話になってしまいそうです。
思い入れのある馬がこの世を去るということが続いたもので、ただ呆然としている現状です……。

JRAのお知らせより

ダービーレグノ号について

第9競走で、4番ダービーレグノ号(松永 幹夫騎手)は、競走中疾病(左後屈腱断裂 ※予後不良)を発症しました。

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2004-08-20

サンヴァレーに関する長いお話:その2。

8日の記事の続きです。ブランクが入ってしまってすみません。

2000年の秋、私はある調べ物のため、梅田のプラザエクウス(現在は閉館)の資料室で『全国馬名簿』(日本軽種馬協会の刊行物で、その年に生まれたサラブレッド・アングロアラブの産駒を牧場別に収録したもの)を見ていました。
その調べ物が終わった後しばらく、何頭か気になる繁殖牝馬の名前をリストで探していました。そのとき、ふと開いたページに、母ヴァレリーの産駒が載っていることに気が付きました。驚きつつその欄をよく見てみると、父ウイニングチケットの牡馬で、この産駒が初仔、とありました。
よかった、無事繁殖に上がっていたんだ……。そのことがようやく分かってとても嬉しくて、思わずその当時出入りしていた知人のサイトの掲示板にこのことを書き込んだのを覚えています。
#その知人もポレールのファンで、ちょうどその頃阪神競馬場で誘導馬としてデビューしたポレールの話で盛り上がっているうちに「そういえば妹のヴァレリーは……」という書き込みがあったんです。それでそこに返信したんです。
この仔はどんな競走馬になるのかな、もしかしたら母の兄ポレールみたいな名障害馬になっていたりするかも……、そこまで頑張ってくれたらいいなあ。そんな期待を抱きながら、この初仔のデビューを待つことにしました。

そして、2001年の夏。
初仔は母や伯父と同じ岩元厩舎に入厩し、サンヴァレーと名付けられました。

以下、次回に続きます。

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2004-08-08

サンヴァレーに関する長いお話:その1。

JRAのお知らせより:

第4競走の競走中止
9番サンヴァレー号(出津 孝一騎手)は、他の馬に関係なく第7号障害飛越後、馬体に故障を発症したため競走を中止しました。
馬 :右上腕骨々折 ※予後不良
騎手:異状なし

サンヴァレーといえば、母ヴァレリーと、伯父にあたる偉大なる障害馬ポレールのことを抜きには語れないでしょう。
話は96年に遡ります。
その年の春、ポレールは東京障害特別と中山大障害を制し、一気に障害界の頂点に昇りつめました。私がポレールのことを好きになったのもこの頃のことです。
そしてその夏、ポレールと同じ岩元厩舎に彼の妹が入厩して、しかもかなり期待されているようだという噂を聞きました。その妹の父は、サンデーサイレンス。初年度産駒にあたるその年の4歳(旧表記)世代がクラシック戦線を席捲し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった種牡馬の産駒だけに、大きな期待がかかるのも当然のことだったでしょう。
ほどなく、その妹ことヴァレリーが小倉でデビューしました。デビュー戦は3番人気3着、折り返しの新馬戦は2番人気で7着。まだ馬が発達途上なのかな、という感じでレースを見ていた記憶があります。
ところが、そのレースの後、彼女の名前を見かけなくなってしまいました。兄のほうは阪神障害ステークスを勝ち、その後中山大障害2連覇そして3連覇の偉業を成し遂げ、春の天皇賞にも出走したりもしていましたが、そのあいだも彼女の名前が出馬表に出てくることはありませんでした。
ようやく彼女が復帰したのは、デビューからちょうど1年経った小倉開催でのことでした。両前脚の骨折(……と記憶していますが、違ったらごめんなさい)を乗り越えてレースに戻ってきた彼女は人気を背負って走り続けましたが、掲示板に載ったのが1回だけという結果に終わってしまいました。その後、福島開催のいわゆる「最後の未勝利戦」を走り続けましたが、2桁着順が続いてしまいました。結局、デビュー時の期待に応えられないまま、彼女は地方競馬(高崎)へと転厩していきました。
当時、地方競馬の馬の戦績を調べる手だてを知らなかった私は、彼女が現役でいるのか、待望の初勝利を挙げることができたのか、と時々思い出しては心配になったこともありました。
ようやく彼女の消息を知ることができたのは、地方転出から3年後、2000年の秋のことでした。

以下、次回に続きます。

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2004-08-05

これぞ、競馬者の靴。

山河拓也さんのサイトで仕入れてきたこんなネタ。

競馬者の女性に、ぜひともオススメしたい靴。だそうです。

とりあえず歩きづらそうといいますか、実は解剖学的には指先で走っていることになる馬の苦労が分かりそうと言いますか。ちょっと履いてみたいけど、……普段スニーカーかそれに近いものしか履いてない人間なので、やめておきます。


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オーストラリアの最優秀障害馬決定。

7月31日で2003/2004年度のレースシーズンが終了したオーストラリアで4日夜、年度代表馬と各部門の最優秀馬などが発表されました。
そのなかで、2003/2004年度最優秀障害馬は、シーズンの最後の最後でHiskens Steeplechaseを勝ったTopzoffでした。ちなみに次点は上り馬Team Heritage。

投票結果とか他部門の最優秀馬などはRacing Victoriaのサイトで見られます。

しかし、↑のページの下のほうにある得票数をよく見てみると、最優秀障害馬(Seppelt Wines Champion Jumper)だけ総投票数が異様に少ないのが気になります。他の部門は162人になってるのに(1部門だけ違うけど)、障害馬だけ46人なんです。もともと投票する資格を持つ人が少ないのか、それとも……。まさか、どこかのように「該当馬なし」がわんさかなんて状況じゃないとは思いますが。
#たぶんこういうことではないかと思われます。
 オーストラリアの6州+2特別地域のうち、障害競走が行われているのは南部の3州(ヴィクトリア州、南オーストラリア州、タスマニア州)だけなんです。それもやたら広いオーストラリアのことですから、北のほうのブリスベンとかシドニーあたりの人に最優秀障害馬の投票を、と言われても無理というのが実情かもしれません。
 なにしろ関係者じゃないので思いっきり類推で書いてみましたが、実際のところどうなんでしょうね……。

ともあれ、これでまたTopzoffが中山行きに向けて一歩リードしたかな、といったところですね。

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結果が遅くなりましたが - Hiskens Steeplechase

7月31日に行われたオーストラリアのHiskens Steeplechaseは、1着:Topzoff、2着:Team Heritage、3着:Karasiという結果でした。ちなみに、4着:Misty Weather、5着:Black Anthemだったそうです。
Topzoffについては31日の記事で取り上げようかどうしようか迷ってましたが、結局時間がなくて諦めたので、今物凄く後悔してます……。
勝利騎手はAdrian Garraway。そういえばこの騎手の名前に見覚えがあるなあと思っていたら、中山GJ創設前に行われていた国際障害騎手招待競走に出場していたことのあるお方でした。たしか2回くらい出ていたような記憶があります。
で、話をTopzoffに戻しますと。彼がHiskensを勝ったということで、これまでの例で行くと彼が来年の中山GJのオーストラリアからの招待となる可能性がいちばん大きいかもしれないですね。陣営も日本へ行く気満々のようですし。

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